贅沢なものって

私の部屋は湿った太陽の光の当たらない納戸だった。
その部屋の窓を開けると、そこは一面草壁だった。

それは、畑や田んぼへ続くけもの道でもあったため、時々持ち主がねこ車を押したり、くわを持ったりして通る。
クシャッ、クシャッ・・・と長靴が草を踏み分ける音が聞こえてくると、あぁ、畑に行くんだなとか、田んぼに行くんだなと思った。

私は締め切った陰気臭い納戸が嫌だったので、いつも窓を全開にして網戸だけにしていた。
冬は、ストーブをこんこんと焚きながら、換気目的で窓を開けていた。さすがに全開ではなく、ちょっとだけど。


時々、通るおばさんやおじさんに『こんにちは』と挨拶をしたりもした。

今振り返ると、とてもプライバシーのない光景だ。

窓際にベッドを置いていたため、昼寝などしていようものなら、丸見えだった。
実際、私は怠け者で、良くベッドに寝転んでマンガを読んだり昼寝をしたりしているような子だったので、きっと通る大人たちは、あそこのお譲ちゃんは、いつもゴロゴロしとるわ、と思われていたかもしれない。


まぁ、それはいいとして。
その窓から見える景色が、時々浮かぶのです。
私の住んでいた家を、その景色が象徴しています。

春も、夏も、秋も、冬も。
そこから見える草の壁と、土や木のにおいを、私は一生覚えていたいです。

草や木が揺れて鳴る音を、忘れないでいたい。
とても、素晴らしい音だったから。

その音を当たり前のものとして聞いていた私は、とても贅沢な暮しをしていたのだろう。


今、大人になって、ある程度の収入もあり、欲しいものはたいてい手に入るような暮らしをしているが、心にはどこか隙間風が入り込んで、よく私を鬱々とさせる。
それは、たぶん、ああいうものが足りてないからなんじゃないかと思う。

それは、静かな夏の午後。
それは、暖かな秋の晴れた日。
それは、冬の冷たい夜。
それは、春のにおい。

あの窓から感じた当り前のものたちは、今の私の大きな部分を占めている。