utauhito2011-01-28

父が死んだ。

去年の夏のことだ。



父は、母とは離婚しており、その当時、独り暮らしをしていた。

数年前には、父の母親(私にとっては祖母)も亡くなったばかりだ。
祖母は、いわゆる大往生。
死ぬ間際まで私には幸せそうに見えた。いや、思えた。
ま、それはさておき。


父は、5人兄弟の末っ子。

幼いころから甘やかされて育った。

成人し、若くして中学の同級生だった母と結婚。
そのままいったんは実家から離れて遠くで暮らし、私が産まれた。

4年後には、妹も産まれた。

いわゆる核家族で、幸せに暮らしていたようにも思えるが、当時の私の記憶に父親はあまりない。

公園の遊具での断片的な記憶。
家での父の記憶はほとんどない。


その当時、父親には別に愛人がいたという。
のちに、知らされたこと。

さらに、その当時、父は、借金の連帯保証人になり、さらにさらに、その人に逃げられて、約1000万円もの借金を肩代わりさせられることに。


それで、私たちは父親の実家に暮らすことになったようだ。
それは、私が小学校に上がるときのことだ。


このとき、父はまだ愛人とは切れていなかったようで、ここで詳細は分からないが、私と妹と母親のみが父の実家に越した。
父は、時々帰ってはきたが、しばらくは別居だった。
(このことを、今の自分と置き換えただけでも、私にとっては離婚のタイミング。旦那無しで旦那実家とか、ありえないし。)

小学校のどこかで、ようやく一緒に暮らすようになった。
そこも、いまいちよく覚えてないけれど。
(重要事項ではなかったのかな・・・)

こんなにひどいことをしていても、当時の私には“大好きなお父さん”であり、帰ってくるたびに小躍りして喜んだもんだ。ごめんね、お母さん・・・


そんなこんなで、私は小学校・中学校と義務教育の間、父の実家で暮らした。
いわゆる、ものごころついてからの暮らしなので、私の記憶の中では、“私の家”はここなのである。

しかし、祖母と母はいわゆる嫁・姑。
どこにでもあるように、やはり仲は良くない。
まぁ、私から見ても母はひどい扱いを受けていた。

祖母は、近所の集落の中でも、結構ひどい部類の姑だった。

母は、私が小学校低学年くらいの間は今で言うかんぽの宿で働いていたが、このときの給料は袋ごと祖母に渡していたらしい。
小遣いもほとんどもらっておらず、社員旅行のときの500円の弁当代も払えず、人から借りたという。
休みの日には、祖母と祖母が呼んだ友人や親戚たちの足にされており、結局休みに休んでいるのを見たことがない。

父はといえば、完全なるマザコンにて、母は孤立。
よく逃げる姿や、逆に非の無い母を罵倒するような場面も見てきた。


先述した父親の借金のせいで、私は成人するまでひどい貧乏暮らしを余儀なくされた。
欲しいものもあまり買ってもらえず、私は小学校や中学のかばんや制服までお下がりだった。
中学の入学のときには、一人だけ茶ずんだ鞄を持たされ、男子生徒にからかわれたものだった。

服だって、ほとんど買ってもらえなかった。


けれど、父は普通にパチンコに通っていた。
パチンコへ行く資金がないときには、妹の貯金箱に入っているお年玉をせびって妹から金をもらってまで行く姿も見た。


私は高校に入ると、寮暮らしとなり、このときから実家暮らしともおさらばとなった。
もちろん、季節ごとの休みには帰ってきたけれど。

私と祖母とは近くに居ると喧嘩ばかりしていたので、ウマが合わず、なので、離れて暮らすことになったのは精神的にもありがたかった。

私は、何度となく核家族にあこがれ、父のせいで実家へ帰ってくることになったのを恨んだこともあった。
仲のよさそうな、窮屈でなさそうな友人の家庭をとてもうらやましく思った。

そう、私は、実家ではとても心が窮屈だった。
それは、ほぼ、100%祖母の存在のせいだった。


さて。

私は、高校の後、短大に通い、その後紆余曲折あり、短大卒業後にはそのまま予備校へ2年間通い、新たに夢を掲げて大学へ入りなおした。

その、2回目の大学生活の途中で、母と父の中は決定的なものになり、離婚という結果になった。
結果的に父は、ここで人生における大きな損失をもたらしたことになったのだ。


母は、妹とともに家を出て暮らし始めた。
家を出てからの母は、はじめこそ精神的に参っているようだったが、時間が経つにつれ、本来の母らしさを取り戻し、私たちでさえ知らなかったような母の姿を少しずつ見せていくようになったので、私たち姉妹はとてもうれしかった。


父は、と言えば。
実家に祖母と2人暮らしとなった。

籍を抜かずに家を出た妹は時々実家に戻っては父や祖母につかわれたり、面倒を見たりしてくれていた。
申し訳なく思いつつも、私はほとんど帰ることなく、少し離れた地で仕事をしていた。

父は、使われることが嫌いと言い、成人してからいわゆるサラリーマンのような仕事は全くしていない。
左官業を身につけ、それで田舎でその日暮らしのような仕事をしていた。
仕事をしては収入をもらい、しばらく仕事を休み、また金がなくなると仕事を請け負い、というような生活。
体の調子が悪く、仕事が出来ないときには、祖母の年金で暮らしていたようだった。

そう、父は、30代で糖尿病を発症。
そして、40代には慢性関節リウマチを発症。

以後、この2つの疾患に悩まされ続けた。
まじめに病気と向き合わなかった。

50代には、心筋梗塞で死にかける(心臓が止まり、倒れ、意識を失った場所がなんと、病院という悪運の強さ)。

けれども、糖尿病を罹患したときからも、父のテイタラクぶりは全く変わることなく、病気を恨みこそすれ、闘おうとはしていなかったように思う。
好きなだけ甘いものを食し、食事制限や運動療法も続かず。
体は蝕まれていく一方だったのではないだろうか。

母が出て行ってからは、ますます生活はひどかったと思う。
また、近年、祖母が亡くなると、その生活はますます廃れていく一方。
喫煙もし放題。ヘビースモーカーで死ぬまでタバコから離れることは出来なかった。
この父の将来をどうしたら良いのか妹と頭を悩ませていたものだった。

収入が無い。(一応、晩年は郵便局に雇ってもらっていた)
借金を作る。
病気を持っている。
人に頼ってばかりの生活。


晩年は、いつも暗い神経質そうな顔つきをし、年齢よりもすっかり老け、痩せ細り、いつも体とお金のことばかり言っているような父であった。
口を開いても出てくる言葉は体がいかにしんどいかとか、または嫌み混じりのこと。
お金や物を渡すときだけ“すまん”“ありがとう”という。

私は割と冷ややかに接していたが、根の優しすぎる妹は、この父に死ぬまで悩まされ続けることになった。
月に何度も金の無心の連絡があったようだ。
数万円、ときに数千円の無心。
知人の香典すら用意出来ないような生活。

学生の頃の思い出のある実家は、どんどん違うにおいのする場所になっていって、居心地も悪く、仕事の忙しさもありますます私は遠ざかって行った。


そのうち、妹も対処しきれないときには、どうやら、父は私たち姉妹に内緒であちこちに借金を作っていたようだった。
そして、そのころには祖母も認知症を患っており、父の行動も把握出来ていなかったようだった。



父が死んだ去年は、父にとっては最も苦しかった年だっただろう。

年の初めには、糖尿病の進行から体中に水がたまり、その原因を検索するために入院。入院時、父の足は象の足のように腫れ太くなっていた。
その検査入院中に十二指腸潰瘍がやぶれ、緊急手術。
長期間の入院となった。

その後、春になって退院し、また入院費や生活費を稼ぐべく、すこしずつ郵便局で働くも、入院時から完全には回復しておらず、体力もなく、さらに金もなく、生活は荒れる一方。
そのうち、夏か近づいていったが、おそらく免疫力も全くなかったのだろう。
普通なら抵抗出来るはずの感染症にかかり、肺炎に。

その肺炎になっても、元々全く抵抗力もなく、あっという間に全身状態が悪化。

気管挿管されたまま、ICUでの管理下で入院に。

気管に管が入り、意識レベルも薬によって落とされた父の姿は、とても59歳とは思えず、あるとき病室に入った私は、一瞬知らないおばあさんの病室に入ってしまったかと思うほど別人のように老けこんでしまっていた。

私は、父はこのまま元のように戻れることは難しいだろうなと思った。


その予想通りに、父は間もなくそのまま全身状態が悪化し、肝臓も、腎臓も機能しなくなり、この世を去った。
まだ、59歳だった。


死んだのは、明け方であったが、その前の日の夕方に、私は最後に父と会った。
暑い初夏の夕方。
産まれたばかりの私の子供の写真を見せると、眼だけで驚いたような表情を見せたが、顔は黄疸で黄色くなり、全身むくんで腫れており、呼吸も苦しげで、本当に分かっていたかは定かではない。
妹は、その日何かを察したように病室に泊まり、その日付が変わった明け方に心拍数が下がっていって、息を引き取ることになった。

私からすれば、壮絶な最期。苦しんだ時間も長かった。
とても、苦しかったと思う。

父の、生き様そのものを象徴しているかのような、最期。

たった、独りになり、入院するくらいにひどくなるまで誰にも頼ることの出来なかった生活。
入院中も、ほとんど見舞いもなく。
妹が仕事の合間に通って身の回りの世話をするくらい。
おそらく、入院中の長い長い長い長い時間を、ほとんどの間天井を見て過ごしたと思う。
それを思うと、すこしだけ胸が詰まる。

独りになってしまってからは、一体どんな暮らしをしていたのか、一体何を食べてくらしていたのか。
妹が時々訪問すると、山のような菓子パンや菓子の空き袋や、カップ麺のカラがあったらしい。


父が、死んでしまったあとに、たくさんの事実を知ることになった。

葬式の最中に、金を返せと怒鳴りこんで来る親戚。
私たちは知る由もなかった何百万もの金を貸していたと執拗に返金をせまる父の姉。

借りれるだけの機関で、借金をし、返しきれなくなった後で、破産をしていた過去。
そのあとは、近所中に借金。

つつましく普通に暮らせば、一体何に必要だったのかという金額にも達する。

自動車関係のお金は全てツケで払っており、妹がローンで返済させられる始末。
私にも、ローンを私名義で組んでほしいと言われたことがあったな、そういえば。


はぁーーー・・・


何を書いているのか分からなくなってきた。


そもそも、なんで、父が死んでこんなこと書き残しておこうなんて思ったのかさえ分からなくなった。

衝動的に、PCに向かってしまっていた。

父が死んでからこっち、色々な思いがめぐって、何だかやり切れなくなってしまったり。
自分のこれからや、今までのことなんかが、頭をグルグルとする毎日。

なんで、つらかったあの実家での暮らしが今になってもこんなに鮮やかに記憶に残ってしまってるんだろうなぁ・・・・。

そして、人が産まれて生きて死んでいくっていう当たり前の事実を、父の死によってまた突きつけられたような。

人は、どうしてこんな風にしてめぐっていくんだろう。

私があの父のもとに産まれた意味は何なんだろう。

父は、今、どこに?
自分の生きてきたこと、振り返って、どう感じているのだろう。


本当に、情けなくて、もう、晩年はどう接したら良いのかさえ、考えることを止めてしまっていた父のことを思い出すと、何故か私の名前を呼ぶ音の響きだったり、独特なはき棄てるような笑い方だったり、でも優しげな笑いもあったり、汚いメモ帳に残されていた私の学生時代の行事を記した父の拙い字だったり。
太くて短くてところどころ汚れた指だったり。独特のにおいが染み付いた軽トラックだったり。あまり金の入っていない革財布。いつもしていたGショック
実家の坂をドタドタと駆け下りてくる足音。玄関の泥落としで靴の泥を払う音だったり。勢いよく開ける玄関の音とか。
一人で家の仕事を一生懸命やってる後ろ姿とか。
冬季に通っていたスキー場の貸しスキーとか。
幼い言動とか。
抑えつけるような物言いとか。
軽トラックのエンジン音とか。

エトセトラエトセトラ。

思い出す。

また、厄介なことに、父は私の職場で死んだものだから、職場に行くたびに、死んだときの夏を思い出す。

重たかったお腹を抱えて、父の病室に行っても、私は仏頂面で大した話もせず、いつも1秒でも早く帰りたかった。
妹のようには接することが出来なかった。



金のことでは、本当に情けなくて最低な父親だったけれど、それ以外は、やっぱり好きだったんだと思う。

死んだときには、“死んで良かったんだ”とさえ思った。
これからのことを考えると、私にはとても父を助ける気持ちが無かったし、生活も性格も改善の見込みなど無かった。

でも、やっぱり日々、死んだ父から突きつけられるなにかがあって、そして、人が生きて死ぬってこと、考えずにはいられない。

私は、これからどんなふうに生きて、そして、いつ、どんなふうに死ぬのだろう・・・・
死ぬことはきっと自分じゃどうにもできない。
けれど、生きることはどうにでもできる。こう生きたいと思えば、努力することができる。

残りの生きる時間を、私は大事にしたいと思う。
いつか、死んで、何も残らなくても、私は丁寧に生きていきたいなと思う。
生きた証を残すために生きるのではなく、ただ、生きるために。


しばらくの間は、とりとめのないこの雑念と向き合っていきたい。ゆっくりと。